黒谷暦 季節のお知らせ

2023.12

2023.7

2023.5

2022.4

新緑将滴の候、漸く境内のそこかしこに石楠花が咲き出した。
萌黄色の新緑がフィトンチッド(森林の精気)を醸し出し、
疲れた心や体を癒してくれる大自然のたまものだ。
黒谷の里山で88ヶ所を巡拝しながらその作用(薬効)に心身をゆだねて
山川草木を五感に研ぎ澄ませてみる、
自身の清浄なる潜在意識と対峙できる場である。
元来、人は大自然に身をゆだね自然の声に耳を澄ませ生きてきた生き物だが、、、
衣食住の環境変化の中で生きざるを得ない昨今、
否応なしに冒されている心と体に自然の滋味なる栄養を体に取り込み
リフレッシュして穏やかに身をゆだね深呼吸をしながら明日への英気を養ってほしいものだ。

太陽の恩を感ずるは人間が神を知るの初めなり。
涙骨抄

2021.12

≪ 境内の冬の風景 ≫

2021.10.1

お釈迦様の教え「八大人覚」に
「諸の苦み悩みを脱れんと欲せば、まさに知足に感ずべし。知足の法は、すなわちこれ富楽安穏の処なり」
と遺されています。
このコロナ禍の状況に考えさせられるお言葉です。
余りにも豊かになりすぎた時代
地球が悲鳴を上げているように、気候変動が起き災害が後を絶たない
もっともっとと求め続ける私たち人間に警鐘を鳴らすかのように、コロナが蔓延した。
一度立ち止まり、背負いすぎた荷物を削げ落とすことに専念すべくこのチャンスを戴いたような気がする。
しかし、その富楽安穏にいくには真実の自己に目覚め、たゆみない正法の日暮らしが条件だ
「得意の十年は短く、失意の一年は長い」容易な事ではない。
足ることをしれば心安らかなる事なのだが、、、。

何のための強欲ぞ。しぬるぞよ。一切を捨てて今日に生きよ。 
涙骨抄

≪ アサギマダラと秋の野草 ≫

2021.9.20

9月20日から1週間は秋彼岸です。
墓参や寺参りをして先祖を偲び今に感謝の誠を捧げて彼岸に行く修行に精進したいものです。
当山の88ヶ所は慶応時代に建立されたものですが、古より祈りの聖地として守られてきました。
巡拝する時は「六根清浄」とお唱えしながら廻らせて頂きます。
“六根清浄とは迷いから覚めて清らかになる事です”
日々の生活の中での葛藤など自身の中で解決できない問題など誰にも話せず糸口が見えない時など、
少し社会の喧騒から離れて静かにお大師様と同行二人の巡拝をさせて頂く場所として設けられたものです。
安心や気づきを戴ける聖域です。
煩悩の浄化をさせて頂く祈りの場所でもあります。
彼岸の一日を、自身の内省をしながら「六根清浄」とお唱えして巡礼ください(お大師様の杖と共に)。

今日彼岸、菩提の種をまく日かな 
芭蕉

≪ 境内に咲く秋の花 ≫

2021.8.20

− 黒谷観音御開帳の御礼 −

2021.2.1

節分の節というのは、古来より節のある竹になぞらえ
四季(春夏秋冬)のはじめの日を立春、立夏、立秋、立冬といい、
その前日を季節の分かれ目という意味で節分と言われてきました除災招福を願う行事です。
旧暦では、この日は七日、正月の前後であったから年頭の行事として節分は特に重んじられてきた事です。

天佑神助を信ずる者は精魂を盡して人業に勵む
涙骨抄

2021.1.1

2020.12.1

雪虫の飛かう昨今は、早12月となり今年は天災やコロナ禍で
未だかってない程精神的にも肉体的にも堪えた年ではなかったかと思う。
まだ収束に至らぬコロナも、
其のメッセージの受け止め方を今一度考えなおし、
其の意味と投げかけられている問を見直し
日々を謙虚に慎ましく生きねば収束に至らぬのではないかと案じる。
釈尊の慈慮「精進こそ不死の道 放逸こそ死の道」と諭し続けられたご生涯にあるように
無常の世であることを知り「仮の世」であることを知り得たなら
放逸にふけてなんぞいられるものかと精進せねば
天地自然の真理に目覚められぬまま逝かねばなるまい。
天意や仏意に添うて生きることこそ
今生に人間として生まれさせて頂いた恩に報いる生き方ではなかろうか。

人生は幕一枚で仕切られ、
その明暗は心の持ち方一つで内外が劃される。
涙骨抄


2020.9.1

徒然草に“こころは必ず事に触れて来たるの如く”の一節が有る。
私達は生きている限り外界の物事に触れずしていきることが出来ない。
自然界の中に身を置けば、
その芽吹きから紅葉に至るまで心動かされ感動し、露草の一滴の雫でさえも感動する、
その一瞬のいのちが私の心を動かすものだ。
信心が無い者でも仏壇の前に坐れば自然に手を合わせお香を手向け、
お経の一節でも誦もうと思うものだ、
其の行いの中で自身の誤りを悔い改める事も有る、
経文の一節に導かれて内心の証ができてくるものであろう。
如何様にも動く人の心であるから,
かりにも不善の戯れを起こさず、資善の志をもちたいものだ。

その時、その場所、唯だ「あるがまま」でよい。あるが儘で萬物を観る。
あるが儘に虚決し、あるが儘に進退する。
涙骨抄


2020.8.1

「その報い よも われには来たらざるべし」
かく思いて 悪しきを軽んずるなかれ 水の滴りしたたりて 水瓶をみたすがごとく 
愚かなる人は ついに悪をみたすなりと法句経にある。
些細な心の迷い、その過ちが自分に報いるとは思はずおかす小罪、積もり積もって積不善の余殃に苦しむ事に成る、
「小罪を軽んずること莫れ」とは古来仏教の誡めである。
当山の四万六千日は浅草寺と同年來続いてきた行事である。
この機会に自身を積善の余慶に導く感謝と懺悔の祈りをしたいものだ。

罪は罪そのものよりも、罪に行くまでの経路に重點を置いて考察せざるべからず。
涙骨抄


2020.7.1

梅雨さなか、黒谷の山中は杜鵑、アカショウビンの鳴き声と共に初夏の澄んだ空気の中、
未明の坐禅、勤行、写経と一日の勤めが始まる。
十一面観世音菩薩に見守られての日々だ。
来年はご開帳の年だが天意の定めに遵うのみ。
そのご縁に会えれば有り難き事なれど今生に生を享も因縁因果の理だ。
この世の中の事象は皆相互に関係しあい成り立っている、此の度のコロナウイルスも又かくの如くだ、
常に影響しあい移り変わって行くものだ、
この道理を理解し体得することが真実の生き方を覚ることだ。

激しく雷鳴する時は悪人も善を志す。
海上風神の激怒に觸れると乗客は誰も念佛する。
之が抑も人間に迷信を與へる動機なのだとある。
雷も鳴らず、風神も怒らぬ世であれば正法宣揚には適しないのかネ。 
涙骨抄


2020.6.1

仏教で因縁の道理に随うという「隨縁」と、
儒教の現在の身分・地位に応じて身を処すという「素位」がある。
「菜根譚より」
人としての生き方を学ぶにあたり、これらの事象のすべては因縁に依って生起している事が納得できる。
しかし、煩悩を修め欲望を収拾し自身の置かれた境遇に順応することは
容易ではない、、、なれど身を軽くし心やすらかに生きようと思うなら、
先ずこの二つの真理を一体として、人生必携の命綱として精進せねばなるまい、
それでこそ安心立命の境地が得られるのである。

一切を「半位」に留むれば、満たず飽かず常に安全。
半合半開、半親半疎、半陰半陽、翠簾に掩はれたる半面に永劫の美を描く。
涙骨抄


2020.5.1

新緑将滴の昨今、桜葉の萌黄色、もみじの淡い緑、チゴユリが咲き石楠花が満開だ。
まさにフィトンチッドが降り注ぐ境内や88ヶ所を巡拝する好時節の黒谷。
フィトンチッドは其の殺菌性と香りには安らぎ効果や癒し効果が有ると言われている、
科学万能主義の現代だからこそ心をリセットして
大自然の中で心と体のみならず自らの魂の浄化を促し、
その成分を共感してみては如何がだろうか、
目に見えずとも呼応する何かを感じられるであろう。
コロナウイルスも目に見えない解決困難で自他共に影響の大きい難問だが
必ずや解決の方途を見出すことが出来ると信じている、
しかし其処には人智を超えた目に見えぬものに対して畏敬の念を持たずしては難しいものがあるやも。

内省には必ず積極性を要する、消極的内省は寧ろ疾患だ。
内省より湧き出る弾力、其れに依って積極的更生の自己を創造するのだ。
涙骨抄


2020.4.1

昨今、当山には親子連れや孫を連れた老人の方々の参拝が日に日に増えているように感じる、
コロナウイルスで学校が休みの事も有ろうが、ほっとする光景だ。
古来その姿は自然への畏敬の念であった。
スマホだITだと言われる今日だが、祈る姿はやはり神聖で美しいものだ。
世間ではしのぎを削り進歩に遅れまいと釈尊の説かれた「清貧」などどこ吹く風だと言わんばかりに、
物の溢れに歯止めがかからない。
挙句、天災や人災が次々と起こる、
地球温暖化の産物は止めどなく
人の心は物では満たされないはずだが物で満たすことしか教えられていない若い世代。
今こそ生きる意味を家族で学校で社会で考えて行かねば、、、。
古より物が栄えて心が滅ぶ教えはあるが今まさに、その有りように見えるのは私ばかりであろうか?
「衰颯の景象は、就ち盛満の中にあり」
物事の衰える兆しは、既に最も隆盛の中に始まっているという事だ。

「分限を知る」ことが人間生活の第一要諦だ。
涙骨抄


2020.3.1

3月は当山恒例の涅槃会の法要が営まれる。
釈尊入滅2月15日の行事で1か月遅れの法要だ。
雪深い山間地の為この時期と成るも本年は雪の無い暖かな昨今乍、例年通りである。
年に一度の涅槃会で釈尊が説かれた遺教経を読経して
「生者必滅会者定離」
この世の事象はすべて、多くの因と縁が相縁ってできている仮の存在で、
生命あるものは必ず死があるという天地自然の真理であること、その真髄に触れてみる縁に会う機会でもある。
「精進(はげみ)こそ不死の道、放逸(おこたり)こそ死の径」と諭し続け
大覚(じょうどう)して沙羅双樹にて八十歳で入滅されたご生涯であった。

累々として積み重なった肩の荷物を一つ卸し更に一個を捨てる、
その度に比例して身心が軽くなる。
一切を解放された暁、それは死である。
而して人間は節々に「死を味ふ」ことだ。
そこに自ら安眠が恵まれる、自ら静寂が生まれる。
涙骨抄


2020.2.1

雪のない今年は自然のサイクルが壊れる前兆のようだ。
四季のある日本には無くてはならない風物詩であり必要不可欠な自然の産物である、
このバランスを壊すのも守るのも人だ。
「吉凶禍福は糾える縄のごとし。人間万事塞翁が馬」という諺がある、
よい事と悪い事が丁度縄がない合わせてあるように表裏一体なのだと云うことです。
節分を迎え、生きとし生けるものの幸せを願い無病息災を祈る。
この大切な節目をしっかり捉え、
お金や物があるから幸せなのではない本当の福運とは何であるか、
災いとは何であるかを今一度静かに考える好機である。

自覚あるはもとより自覚なきに優る。
而して実行に移さねば自覚は直ぐ麻痺する。
涙骨抄


2020.1.1

迎 春
新しき年の始めの初春の今日降る雪のいや重け吉事

家持

本年も皆様もご多幸をご祈念申し上げます。
来年は当山の十一面観世音菩薩は33年に一度の御開帳(8月9日から16日迄)です。
京都清水寺の森清範猊下を拝請して、8月11日法要・記念講演などをお願いしました、
皆様の結縁をお待ちしています。
世界平和を願って皆様と共に開廟の日を迎えることが出来るよう祈念します。

2019.12.1

雪虫が境内を舞い始めてから1週間目に荒島岳に初冠雪が見られた、
大自然の営みは見事なまでに的中し季節の移ろいをしっかり掴み冬の準備へと誘う昨日今日だ。
当山の雪囲いは準備万端整い、つつじの雪つりや山中の石楠花も86歳の方の手により見事に整えられた、
木々にとって厳しい冬を耐える支度が出来た、感謝のほかない。
この一年を振り返り翌年を図る、過去は乃ち将来の路頭たるを知り、
新しい年に向けて自己の内省をよくして備え天意をまごうことなく受け止めて足るを知る生き方をせねば成らない。
永平寺では1日から臘八接心に入り8日まで坐禅三昧だ。
静かに坐り自己の内面と対峙すれば自然と、しては成らぬこと、せねば成らぬことが見えてくる、
初一念を振り返る時期だ。

地上に生れ出たものは善悪共に何れも必然の意義を持つ。
之を一掃し去らんとするは天意を無視するものだ
涙骨抄


≪ 花蕨・秋の庭 ≫

2019.10.1

秋になると黒谷の空気が一層澄み、
魂の浄化と六根(眼鼻耳舌身意)清浄を深くする、寂静に清む昨今だ。
ああ、1200年の佇まいとは此のことだなと実感するものがある。
何とはなしに日々を送ることは易きことだが、
自身を掘り下げ、重ねてきた齢の分、反省し感謝して祈る日々でなければ
何のために生きてきたか解らぬまま死んで行くことになる、
そうなら無いように逝きたいものだ。
他ならぬ自分の人生は人には任せることが出来ない最後まで自身の責任だ。
地球も人も末法を象徴する昨今だ、
清貧であれと云う釈尊の教えを、先人の教えを顧みて生きねば、
自然の中に身を置きその息吹を感じられない人間になってはどんなハイテクも役にたたない。

どんなものだって適所がある。全く無益の長物といふものはない筈。
筈は筈だが事実は甚だ筈を裏切って無用の長物ばかり多い世だ。
涙骨抄


≪ 萩と金木犀 ≫

2019.9.1

此の夏の厳暑と豪雨で沢山の被害が出た、
近年稀に見る世界的にも予測不可能な災害である。
天災も人災も無い事が良いに決まっているが人智を超えて起こり得る事の対処は甚だ難しい。
而して、それらのすべてとは言えないが人間のあくなき諸行もその一端を担っているように思う。
今月は彼岸の月、
此岸から彼岸への六波羅蜜行を修行し真実の自己に目覚め彼岸への道に近づきたいものだ。
六波羅蜜とは布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の事、
これに、方便・願・力・智を加えて十波羅蜜ともいう。
その実践は慈悲行・利他行の他ならない事が特徴だ。

右に得たるものは直ちに左に與へる、天物は私せざる所に心光あり。
他人の喜ぶを歓べば聊か以って神恩に報い得る。
涙骨抄


≪ つる竜胆・ツクバネソウ ≫

2019.8.1

8月に開催されるお観音様の一年に一度「十日盆」は、
お参りすると4万6千日お参りした功徳があると云い継がれる浅草寺発祥のお観音様の功徳日だ、
全国の観音様をお祀りしている寺ではそれぞれに法要が行われている。
黒谷の十一面観音様も当日は皆様のお参りをお受けしてその功徳を手向けて下さり
誰の中にも宿る発菩提心を目覚めさせてくれる日だ。
お観音様は慈悲の万斛を憐れみて一人でも多くの人々をお救い下さる仏様だ。
十日盆は心静かに我が身心の浄化を委する祈りをして己を省みる日としてこその功徳日ではなかろうか。

信ぜざるは煩悩の一つだ、
併し信ぜられぬ悩みに泣くものは既に深く信じている。
大疑の後に大信あり、
ここに弥陀の一佛の悲願は達せられる。
涙骨抄


≪ 花茗荷・蝉の脱皮 ≫

「十日盆」
8月10日(土)午前10時より 《法要・先祖供養・法話》
8月11日(日)午前10時より《法要・先祖供養・法話》
     午後7時より《星の下コンサート》

この日一日お参りをすると「四万六千日お参りした功徳」があると言い伝えられています。
法話、先祖供養、法話のほか、夜の部にはコンサートも開催されます。
また、庫院2階では、写佛の展示を行います。
みなさまお誘い合わせてお参りください。

2019.7.1

山里の寺では自然と対峙する日々だ、
一時たりとも同じ景色はなく、季節の移ろいに自身の心も又変化する、
動植物をつぶさに観察できるのも黒谷の醍醐味である、山川草木悉皆成仏の世界だ。
山中に坐し五感を研ぎ澄ます一時に感謝と報恩を思う昨今だ。
生きものの頂点に人間が君臨しているような錯覚があるが、
その人間が地球を汚染し最先端の機器を駆使しもっともっとと便利?に生きようと
終いにはAI観音まで作りあげた。
最先端技術も必要だろうが、最低限の生活で汚染なき地球を守る事は出来ないのであろうか、、、
此の驕りを止めるには釈尊の教えを学ぶ他ないように思う。
トルストイは“人は一度は肉体の誕生、もう一度は宗教による魂の誕生を遂げなければ成らない”と云う
“ハイテクノロジーも文明も人類が魂の誕生を遂げない限り幸福な文明とはならない”とも。

微風のそよぐ葉擦れの音から宇宙の聲を聴き、
常に路傍の石に耳を傾けて、時代の向背を感ずるものは命長し。
涙骨抄


≪ 紫式部・チンシバイ・半夏生 ≫

2019.6.1

コアジサイが参道から八十八ヶ所にかけて咲き始めた、
アカショウビンも飛来し、境内で孵化した梟の雛も飛び交う。
モリアオガエルが卵を産み、春蝉が鳴く黒谷の昨今は大自然の営みを休むことなくいのちの宝庫を保っている、
まさに時節因縁を得て初夏を感じる日々だ。
しかし、それらは厳冬の中で倦むことなく春への準備をしてきたからこその龍鳳である、
大切にしなければ成るまい。 生きものとは“いま”というこの瞬間に自分の全生命を投げ入れ
仏性を現前しているのである“時節既至”だ。

知らず知らず深く深く魂の結び付くものもある。
長年月を経てもサラサラと浅瀬の様にしか交われないものも有る。
涙骨抄


≪ ふくろう・モリアオガエルの卵・八重のドクダミ・ヤマアジサイ ≫

2019.5.1

春は花 夏ほととぎす 秋は月
冬雪さえてすずしかりけり

道元禅師

新緑満載の昨今だ。
ひっそりとした観音様の境内も石楠花の大輪が見事な花を楽しませてくれている、
植樹から8年程経ちようやくだ。
神仏は其の行いに偽りがなければ必ずや成就させて下さる、
其の事はお観音様にお導き戴き入山して何度も感得する出来事で有った
「天に従ふを道と云い、道に従ふを自然と云う」人が人足らしむる原点だ。
ただこつこつと今ここを務めて生きることに尽きると云っても過言ではない“看脚下”である。
新緑の中でフィトンチッド(体と心の浄化作用を促す物質)を存分に浴びて身心共に自身を癒し、
六根清浄と唱え88ヶ所巡拝にお出かけ下さい。

待てども来らず、自ら其日は来る。
追へども去らず、期せずして其時は去る。
涙骨抄


≪ 初夏の黒谷 ≫

2019.4.1

彼岸の日を境に鶯が頻繁に啼き始めた。
三寒四温の日々続くも確実に春到来の声と聴く昨今、然れば境内にはカタクリの花・一輪草・など満開だ、
今日は戴いたレンギョウや山桜の植樹作務をする春一日の縁をいただいた、
根づく事を祈り、私の手によって植えられる因縁を現状受容して育ってくれることと信じて老骨に鞭打ち自らの限りを尽くす。
近頃のニュースでは人間のあくなき欲望はとどまるところを知らないせいか、
天候も地球の岐路を示唆しているように思う。
天意を計り大きな恩恵の下に生かされていることに感謝して
反省をして各々が因果応報を知る事に尽きると思うが、、、そもさん。

戦争の一歩前、昴奮の一歩前、自殺の一歩前、
一歩前に食い止めるところに人生の至純味が潜む。
涙骨抄


≪ 境内に咲く、春の訪れ ≫

2019.3.1

黒谷観音では3月17日はひと月遅れのお涅槃会です、
近隣の皆様お誘い合わせてお参り下さい、参拝の皆様にお団子をお配りします。

涅槃会

お釈迦さまの入滅された日です、
滅・寂滅・円寂等と訳され、ニルバーナーとも云い煩悩の炎を吹き消すとの意味もあります、
日常の雑多に追われる心を少し休ませて静かに祈りの声に耳を傾けてみませんか。
涅槃図の解説も素晴らしい内容です。

単純へ単純へと憬れつつ、知らず識らず、複雑へ複雑へと進みゆく。
簡易に簡易にと念じつつ、知らず識らず、煩琑へ煩琑へと流れてゆく。
涙骨抄


2019.2.1

報恩接心、節分、涅槃会と仏教行事に春の訪れを感じる季節だ。
小雪の今年は早々と大地に自然の息吹を感じる昨今となった。
入山以来20年余りの日々をお観音様にお供えされたお布施を戴き今日まで命を繋ぐことができた、
その感謝の意は喜捨して下さった方々へ日々の仏作仏行をもって回向とする。
寺で在るからこその厚意を感謝し精進と報恩に邁進することだ。
もったいなくも忝い。
道元禅師は“布施と云うは貪らざるなり”と正法眼蔵に説かれている。
また、布施は「諸仏の功徳の一つを正伝」したことになり、
「菩薩の一法をはじめて修行」したことになると言われる。
「みずからが所作なりといふとも、しづかに随喜すべきなり」とも、、、深慮すべき教えだ。

心があって物がなければ施されず、
物があって心がなければ施さず、
憐れむべきものと憎むべきものとの差だ。
涙骨抄


≪ 冬の風景 ≫

2019.1.1

煩悩は百八減って今朝の朝

道元禅師の御言葉に「山河をみるは仏性をみるなり」という言葉がある。
地球と云う大自然の中に身を置き自然と共に生かされていることを知り
人間本来の体と心を生かし、生きていることの意味を知り得る唯一の行為だ。
境内の88ヶ所を歩くと“山川草木悉皆成仏”を感じる。
六根清浄を唱えながら、祈りの道を巡拝し人間と自然の仕組みを知得る唯一の巡拝路。
逆走する生き方を一歩踏みとどまり、
自身を再生させてくれる黒谷の里山を散策し心耳を清ませて癒しの一時をすごし
自身の仏性を覚ます一年を過ごしたいものだ。

“人の世の平和は唯「省」か「抗」かに依って決定付けられる。
内に反省すべきを忘れて外に反抗を行うが故に争闘有り。
反省なき處に宗教の涼風なく、反抗する處に地獄の猛火あり。
一にも反省二にも三にも反省だ。
人間の基礎工作は反省の捨石の多少に依って強弱が岐れる”
涙骨抄

2018.12.30

一年の幸いは元旦の一念にあり

黒谷観音では今年も大晦日11時45分から除夜の鐘を撞き始めます、
皆様も参拝されて新しい年が平穏無事で有りますよう願いを込めて鐘をついて下さい。
(参拝者は自由に鐘を撞く事が出来ます)
温かい甘酒をかがり火にあたりながら又、囲炉裏でお召し上がりください。
心よりお待ちしています。
1日10時から新年のお経が上がります、
御祈祷なども受け付けていますのでお申込み下さい。
家門繁栄・厄払い・先祖供養・水子供養・病気平癒商売繁盛・交通安全・良縁吉祥・合格祈願 他
祈祷用紙にお書きください。

「願」を立てたら、それを実現するための「行」が必要となる。
願と行と共に備わってこそ物事が成就する。
山主敬白


≪ 境内の門松・除夜の鐘 ≫

2018.12.1

満目蕭条の候
境内の紅葉がはらはらと散り急ぐさまは得も言われぬ晩秋の風情だ。
まさに暦尾将尽の時、多難な一年であった。
人生の波乱は誰にも等しく在る因果だ、浄業に励む機会を掴み魂の向上を修行せねば。 
深甚の理を味わう冬ちかし
本年は本師酒井得元老師の23回忌を営み老師を偲んだ。
大学入学と同時の出会いであった、厳格一徹の老師の生涯を今も鮮明に思い出す、
その御傍にお仕え出来たことは出家の人生最尊最上の法幸である。
脈々とつないで下さった、血脈を戴いた者とその随身の方々での法要は今生の報恩だ、
厳かで尊いものであった。

盛中に盛なく、衰中に衰なし。萬物は刻一刻に流轉する
涙骨抄


≪ 雪吊り・境内の紅葉 ≫

2018.11.1

山々が日々紅葉に姿を変えて行く季節になった。
今 在るは有難く 此処 有るは感謝である、
この仏恩に報答し真なる自己を見据え、独り静かに限りある命と向き合う昨今だ。
釈尊滅後2500年余りの変わらぬ教えを日々学び、
祖師方の説かれたものを紐解いて真摯に目を向け、自己に内在している深層を掘り下げて
清貧で知恵ある生き方をしたいものだ。
其れは先人が営んできた日本の文化である
先祖を祀り墓参をし家屋における仏壇や神棚などをしつらえ、朝夕の祈りを捧げる日常を送る事だ、
そんな当たり前のことが営まれなくなった現代社会は何処に向かって進んで行くと云うのか、
平和への一歩を踏み出すには自己の内省を欠かせない、
見えないものへの謙虚な生き方を学んで往かねば、真実はそこにしかない。

捨身になり得ないで真の自分が掴めるものではない。
何事にも捨て身になってぶち当たる、そこにこそ完全に自分が生かされるのだ。
拝むこと、祈ること、みな自分を捨てる姿だ。
自分を持つものは心の真底からは拝めない、祈れない。
涙骨抄


≪ カモシカ・紫式部の実・佛足石

2018.10.1

四季咲きの杜若が咲き、大マユミの実がはじけ、
ナナカマドが赤い実をつけ始めた八十八ヶ所の順路は黒谷の秋満々だ。
春夏秋冬同じ条件ではないのに刻々と変化して秋の彩り楽しませてくれる。
自然の装いには目を瞠るものがある、大自然の営みは得も言われぬ世界だ。

光陰矢の如しと云うがまさに刹那々の日々である、
一時として止まる事が無く変化し続けている、
宇宙から見れば人の一生なんぞは瞬き程のことと知るべしと思う。

道元禅師は「念々止まらず、日々遷流して無常迅速なること、眼前の道理成り」と云う。
すべては移り変わり恒常性を持つ事はない、
これが仏教の根本教義でありお釈迦さまの説かれた悟りへの道である。
あらゆる生物は誕生したその瞬間から死に向かって行くのである。
出家してから半世紀、
坐禅のこと以外世事には疎くも「世俗の業を営まず」生かさせてもらい
晩年は一人静かに坐禅岩で坐る日々。
すべてに守られ仏作仏行に生かされたことは最尊最上の喜びと感得している。
日々十一面観世音菩薩にお仕えし乍ら、
生老病死を味わい坐逝すれば本望だ。

累々として積み重なった肩の荷物を一つ卸しさらに一個を捨てる、
その度に比例して身心が軽くなる。
一切を解放された暁、それは死である。
而して人間は節々に「死を味ふ」ことだ。
そこに自ら安眠が恵まれる、自ら寂静が生まれる。
涙骨抄


≪ 山路のぎぜる・シュウメイギク・大まゆみの実

2018.9.1

猛暑、台風、豪雨と此の3ヶ月あまりの厳しい異常気象で沢山の方々が亡くなられた、
改めて大自然の驚異に畏敬の念を持たねばならぬことを強く感ずる出来事であった。
亡くなられた皆さんの冥福を祈るばかりだ。
これらは人間の身勝手な行為もあろうが、
目に見えない神仏の怒りと涙としか思えないのは私だけであろうか、、、。

静かな黒谷の里にも稲刈りの時期が来た、連日コンバインの音が響いている。
戦中戦後の物資の乏しい中育った小衲も晩年はこんな美味しいお米を頂こうとは思ってもみなかったが、
信者さんからの布施米には感謝あるのみだ、
それも皆お観音様のお陰さまと申し上げる他無い。
必要な時、必要な分、必要なものをお与えくださるお観音様、
そんな時に何時も思い出すのは西行法師の“何事のおわしますかは知らねども 勿体なさに涙あふるる”だ。
今年も有難く拝味させて戴く。

自分の力や徳何ぞ有ろうはずもない事は百も承知だ、
寺に身を置かせて頂く縁ながら、
お袈裟の功徳で生かさせてもらい仏縁の中で坐らせて頂く事の他何ものもない自身だ。
ああ、勿体なき今、残された命をお観音さまに御恩返しをさせて頂かねば。
大自然への恩、先祖への恩、両親への恩、ご縁のある方々への恩も斯くなり。

「布施」は僧の読経に対する謝儀のみではない、
凡そ地上に生まれたものは誰でも「布施」すべきだ。
「分」に応じて布施すれば一鉢一衣尚施すべきものがある。
心からなる一句の慰め、誠から溢れる一滴の涙、みな之尊い布施行だ。
涙骨抄


≪ 山路の不如帰・花茗荷・秋海棠

2018.8.1

8月の黒谷はウバユリの季節でもある。
「威厳」「無垢」などの花言葉があるように
1メートルを超える高さとグリーンホワイトの花を咲かせる風物詩である、
この暑さにも負けず悠々と花を咲かせている。
美しい地球に住む人間には総てが理にかない過不足なく与えられているのに、
もっともっとと際限なく人間の欲望はとどまるところを知らない、
何を渇望しているのか、清貧に生きたいものだ。
そこにもう一つ祈りが無ければならないと思う。
地球上に起きている天災や人災に対し私たちはどう向き合うべきか、
足る心を知らねば暴走し続けるであろう。
そうならない為には日々の中に神仏を祈りて今日も無事なるを知る事であろう

※ 禍にも福にも必ず「前兆」がある「予感」がある。
即ち天は汝に「事前の準備」を警告しているのだ。
涙骨抄

「十日盆」
8月10日(金)午前10時より 《法要・先祖供養・法話》
8月11日(土)午前10時より《法要・先祖供養・法話》
     午後7時より《星の下コンサート》

この日一日お参りをすると「四万六千日お参りした功徳」があると言い伝えられています。
法話、先祖供養、法話のほか、夜の部にはコンサートも開催されます。
また、庫院2階では、写佛の展示や、川端嘉明さんによる「天空の城写真展」も行います。
みなさまお誘い合わせてお参りください。

2018.7.1

黒谷の早朝は人間再生の息吹を感じる場である。
常に爽やかな風が吹き渡り、緩やかに穏やかに時に激しく荒れ狂う時もある、
私の耳には其処ここにおいでになる十一面観世音菩薩さまが何やらそっと囁いているようにも聞こえるが、、、、、
木々に宿る木霊聞く洗心の朝。
十一面観世音菩薩の真言を“唵摩訶迦盧尼迦沙波訶”と毎日百八遍至心に称念すれば福を得ると経文に記されているが
境内の木々の囁きが“オンマカキャロニキャソワカ”と聞こえるのは私の空耳だろうか、
佛性寺が聖域とも霊域ともいわれ続けて1200年佇んできた所以は其処にあるように思えるのです、
皆さんもこの境内に一歩を踏み入れ自己再生に心耳を澄ませ福を戴きに参詣下さい。
※ 心清聞妙音、山水養道心、みなその人の心一つ
涙骨抄

2018.6.1

日々強くなる日差しに木々の色が一段と鮮やかに豊かな緑を存分に魅せつけ
初夏を感じさせる昨今の黒谷です。
参道や88ヶ所のコアジサイが淡いブルーで境内を彩り木々を揺らし、
笹ユリも芳香を放って境内の静けさを一層聖域に誘ってくれます。
ことに黒谷の5月6月は言葉では言い尽し難いほど
身心を清める作用を促してくれる境内のそこかしこです。
先代方の意を継ぎ来る日も来る日も境内整備に明け暮れ小宇宙を作庭し、
石楠花や海老根蘭、白糸草、二人静、うらしま草などと共に歩をすすめて参りました。
この聖域で暫しの癒しを感じ、祈りの一時をお過ごし下さい。
ご参詣を心よりお待ちしています。

※人間は皆、人間の力でどうすることも出来ない一関を背負わされているのだ。
自然に順応することを忘れて人間の小細工で左右せんとする所に
深い誤謬が生まれる。
涙骨抄

2018.5.1

境内のケヤキの若葉が日に日に濃くなり、
鴛鴦の巣箱には飛来の姿で雛の健在が確認できる昨今です。
参道から歩かれ石楠花や白山吹、いかり草、春蘭と黒谷の趣を五感で感じて頂きたい季節となりました。
今月は降誕会(お花祭り)の法要を営みます、
「天上天下唯我独尊」のご法話を永張寺様が分かりやすく説きます。
甘露の法雨を頂いて釈尊が誕生され二千六百年、
今も変わらぬ仏教の教えにふれて生きる日々をお観音様と対峙し
残りの人生を感謝と祈りに捧げたいものです。

※天上天下唯我独尊:かけがえのない命の尊さ

「お花祭り」
5月6日(日)午後2時より 《法話:永長寺住職 近藤閑悠老師》
午後1時半より《落語:紙家がんぴ》

お花祭り(灌仏会)は、お釈迦様のお誕生日をお祝いする行事です。
私たちは皆、いのちの奥底に(仏性)を持っています。
ご縁を得て、いつかあなたが仏教徒としての自覚を持たれたら、その日があなたにとって仏様のお誕生日です。
そんな日を迎えられたら、どうそご自身の仏様のお誕生日をお祝いください。
心に染み入るお話と、縁起の良い美味しい甘茶をご用意してお待ちしております。
ご近所お誘い合わせてお参りください。

2018.4.1

当山の櫻木の蕾も心なしか膨らんできました、
参道には猩々袴が咲き始め漸く春の山野草の季節到来です。
新緑の中をフィトンチッドを浴びながら
八十八所巡拝と共に黒谷のお花見にお出かけください。
さて、春は躍動の月です、
始まりの時でもあります、
無尽の勇気をもって一歩々を大切に進めて頂きたいものです。
時には聖域の中に身を置き大自然の中で自己の浄化を促しながら、、、
御心をお運びください。

黒谷八十八ヵ所巡拝の心得

山門は世間と寺との結界です、一礼をして境内にお入りください。
観音堂に入りローソク・線香を立て参拝の御意思を報告して、
外にある杖(お大師様)と共に仏像前のお砂踏みをしながら巡拝して下さい。
般若心経又は六根清浄と唱えながら1番から順打ちして下さい。

※フィトンチッド:「植物」樹木から放出される物質で
健康だけではなく癒しや安らぎを与える効果が有ります。

2018.3.1

多くの雪と長い冬もようやく去り春の風を感じる今日この頃です。
今月はお涅槃会とお彼岸の月です、
“暑さ寒さも彼岸まで”の言葉通り雪解けが始まり蕗の薹が土の中から芽を出し始めています、
3メートルを超える積雪も半分になり大自然は春の準備へと着実に歩み始めています。
人智をはるかに超えたものにそっと耳を澄ませ目にみえぬものに対して畏敬の念を持ち、新しい息吹の声を聞いてみませんか。
黒谷観音では3月18日はひと月遅れのお涅槃会です、
近隣の皆様お誘い合わせてお参り下さい、参拝の皆様にお団子をお配りします。

涅槃会

お釈迦さまの入滅された日です、
滅・寂滅・円寂等と訳され、ニルバーナーとも云い煩悩の炎を吹き消すとの意味もあります、
日常の雑多に追われる心を少し休ませて静かに祈りの声に耳を傾けてみませんか。
涅槃図の解説も素晴らしい内容です。

冬来たりなば春遠からじ
イギリス詩人・シェリー

2018.2.1

今年はかってない厳しい冬となりました。
野鳥や動物たちに餌をあげる回数がこれ程に頻繁な年が無かったように思います。
自然の営みは人智では計り知れません!
なればこそ人間のみが出来る謙虚さ、慎ましさの心で大自然と向き合いたいものです。

節分会

昔は立春・立夏・立秋・立冬の前夜を節分と言っていましたが、後に特に立春の前夜のみに成りました。
陰陽道では冬から春の季節の変わり目に“陰の気と陽の気”が激しくせめぎあいして邪気を生じ災いをもたらすことから、
これを払う行事が出来たと言われています。
本年も「福は内、鬼は外」と、邪気を払い福を呼び込んで頂きたいものです。
生きとし生けるものが安泰で有ります様に安楽であります様に

過ぎゆく年・迎える新しい年を黒谷観音で
心耳を澄ませ本来の自身と向き合ってみませんか。

2017.12.31

12月31日 12時より除夜の鐘をつき初めると共に、
かがり火で暖まりながら、甘酒をお召し上がりください。
※31日、1日、2日は、「茶処」で甘酒のお接待をしています。ぜひお召し上がりください。
1月1日 10時から読経が始まり、参拝の方を無病息災を祈念いたします。
なお、特別祈願も受け付けておりますのでお申し込みください。

黒谷観音年末大掃除ボランティア募集

2017.11.24

12月17日(日)に黒谷観音年末大掃除を行うにあたり、
ボランティアでご協力いただける方を募集しています。
時間は午前9時から正午まで、粗飯ですが昼食が出ます。
内容は境内掃除・堂内掃除・ガラス拭きなどを予定しております。

お問い合わせ

〒912-0075 福井県大野市下黒谷18-52

tel. 0779-66-0325