黒谷観音について

黒谷観音の由来

黒谷観音佛性寺は1200年余り前、平城天皇の勅願によって創建されたと伝えられています。
恒武天皇の延暦年中、奈良子島寺の延鎮上人は霊夢の導きによって
山城国音羽山の滝のほとりに至り、行叡居士から霊木を授けられました。
延鎮は歓喜の涙にむせびながら観音菩薩の尊像三体を刻み、
千手観音は清水寺に、如意輪観音は橘寺に、十一面観音は京都黒谷の仏性坊に安置いたしました。
平安時代のはじめ平城天皇に御感あり、
黒谷仏性坊は勅使左大弁藤原祐信、右小弁小野行成に伴われて越前国大野郡に下向し、
折しも紫雲たなびく黒谷村の国生山を霊地と定めて伽藍を建立、十一面観音を安置し奉り、勅願所国生山佛性寺の建立となりました。
天皇は重ねて、寺領五百万石を御寄進になったいうことであります。
すでにして御堂坊舎、玉の甍を並べて昼夜読経あり、貴賤男女群集して幸運を願い、所願成就一つとして空しからず、
毎年3月18日の例祭(現在は8月9日・10日)まことに賑々しく、勅使も必ず下向せしめられました。

秘仏・十一面観音

平成33年に御開帳される「秘仏・十一面観音」

佛性寺観音堂の本尊。京都清水寺の千手観音、橘寺の如意輪観音と同木同作といわれ、近郷近在の尊崇あつく、秘仏として33年に一度だけ御開帳されます。
豊かな肉づけ、張りのあるお顔、ゆったりと大きい肩と胸、蓮花もつ手にぬくもりを感じます。衣文は肩に、ひざに、あたたかく流れ、光背の飛天が律動的ですばらしい造形美で、一見、平安時代の定朝の作風を思わせる寄木造です。

堂内の諸仏

不動明王
不動明王
不動明王のお姿は、見るも者によっては厳しく感じられるますが、心から感謝する事ができる者から見れば、豊かに温かみをもった大地のお姿としてみることができます。 右手に持った剣は私たちの心の驕りを斬り左手に持った縄は我々の心のわがままを縛り背負う火炎は我々の我欲を焼き尽くしてくださると言う有り難いお姿です。
お賓頭盧尊者
お賓頭盧尊者
お釈迦様の十大弟子の一人で神通力を有し、日本では、自身の病の部分と同じ個所の賓頭盧尊者を撫でると病が平癒すると言われています。
河濯大権現(中筒男命)
河濯大権現(中筒男命)
子授け・良縁の仏さまとして、今も多くの方がお詣りします。

八十八ヶ所巡り

大野新四国88ヶ所巡りについて

弘法大師が弘仁6(815)年、42才の時に四国で開創されたと言われています。その後、四国まで出向くことなく、御参りすることができるよう、全国に「新四国」が建立されました。

黒谷観音88ヶ所巡りの歴史

黒谷観音の四国88ヶ所巡りは、慶応元年巳丑年6月、当時佛性寺を兼務していた、大宝寺32世祐圓により建立されたものです。平成22(2010)年、5月8日、より多くの方がお参りしていただけるよう、これまで狭かった巡拝路を広く整備し風化し痛みが目立ってきた仏像も新調、四国88ヶ所霊場の1番霊山寺住職をお招きし、開眼法要を営みました。この巡拝路が、現在のものです。 

石仏については、建立当初よりお祀りされている自然石の御本尊様と、消失してしまったものに換えて安置されたお地蔵様、今回、新たにお祀りしたお姿の石仏を共々に安置させていただいております。巡拝路は境内の尾根づたいにあり、およそ30分で巡る事が出来ます。
境内に入られましたら、先ず、御本尊様に献灯・献香されましてから、1番から順打ちして88番大窪寺へとお巡りください。88体の仏像の前にはお砂踏み石が有ります。このお砂は四国88ヶ所から頂いて参りましたものが壺に入り、石の下に埋め込まれています。この踏み石を踏みしめ、四国参りと同じ同行二人のお気持ちで御参り下さい。 

お巡りになられる心構え

巡拝中にいろいろな思いが湧いてこられると存じますが、その思いに捉われず、すべてがお大師さまのお計らいと感じ“六根清浄”の御心でお巡り下さい。

お接待

予約をされ88ヶ所を巡拝された方にはお接待(呈茶)を致します。

黒谷経塚の発見

黒谷経塚の発見

大正9年6月、観音堂裏手の山中で素焼のかめが見つかり、中には経筒が納められていました。その外多数の白銅鏡など遺物も出土しました。 経筒には「保元2年」(1157)と刻まれてあり、経筒や白銅像は、佛性寺の歴史に深いかかわりがあることはたしかで、重大な資料が発見されました。出土品はすべて、帝室博物館(現・東京国立博物館)に寄贈されて現在に至っています。

お問い合わせ

〒912-0075 福井県大野市下黒谷18-52

tel. 0779-66-0325